とあるPWの軌跡(8)
2017年9月3日 MtG(その他)とあるプレインズウォーカーの話を続けるとしよう。
第7話 http://endlesslord.diarynote.jp/201708271543264414/
2014年4月12日(土)
愛知県名古屋市某所。
僕は、兄からもらった15年物の青いボストンバッグを担ぎ、そこにいた。
GP名古屋2014春。
ショップブースとサイドイベント目的で単独参加したそのイベントは、穏やかな天気の中で始まった。
GP初日となるこの日は、ショップブースでの買い物が主目的。
カナスレにおける対伝説生物用サイドとして《カラカス》を買ったり、2つ目のレガシーデッキを作るための《Bayou》、モダン用のフェッチランドなどを買い漁った。
その後はショップ主催クジをガンガン回しまくり、思う存分散財した。
こう言うと語弊があるかもしれないが、カード資産が増えることだけでなく、散財する行為自体をすごく楽しんでいたことを覚えている。
そんなこんなで僕のボストンバッグに入ったカードは1000枚程度。
その中には《Underground Sea》といった高額カードも含む、自分のデッキほぼすべてが入っていた。
(GP会場でトレードをするかもしれない、という予想だった。)
僕はホクホク顔で、名古屋のカプセルホテルに泊まったのであった。
そして、運命の2014年4月13日。
この日は僕の誕生日ではあったが、後日調べると仏滅。
今思うと、あんなことになってしまったのは必然だったのかもしれない。
その日の目的はレガシーサイドイベントである熊猫杯への参加。
使用デッキは直前まで悩んだが、当時よく使っていたチームアメリカではなく、カナスレを選択した。
既に慣れていたレガシーの大会を、僕は存分に満喫していた。
本気の対戦で、完全に眼前の盤面に集中していた。
ある、重要なことを見落としながら。
熊猫杯、第3回戦終了。
勝てたものの、非常に試合時間が長く、まさに熱戦だった。
僕は対戦相手に礼を言いながら卓上のカードをまとめ、椅子の下に手を入れた。
空振りした。
一瞬、何が起こったかわからなかった。
もう一度手を入れて、空振り。
恐る恐る椅子の下を覗いた僕の目には、何も映らなかった。
僕の、あの青いボストンバッグも。
僕の、1000枚以上のカードが入っていたバッグが。
色んな高額カードが入っていたバッグが。
6桁円もする、僕のカードのほぼすべてが。
消 え て い た 。
それからの記憶は、少し曖昧になっている。
対戦相手の方に必死に確認を取った。
サイドイベントのヘッドジャッジに伝え、どうすればいいかを聞いた。
大会を棄権し、多分泣きそうな顔で、会場運営と話もした。
半分無駄と分かっていながら、クロークに自分のバッグが預けられていないかを確認した。
とにかく会場を走り回り、自分のバッグを捜しまわった。
近くの交番に行き、事情も説明した。
警官の方は事情やカードの価値も理解をしてくださり、紛失届の作成にも親身に協力してくださった。
ただ、届出書類の作成途中で「財布は残ってて、空の箱が入ってる妙なカバンを見つけたんですけど…」という地元の方が来たときは、心が壊れそうだった。
(結局そのカバンは自分のものではなかった。ただ、同じような人がいた、ということは事実だったのだろう。)
結局、カバンを見つけることはできなかった。
憶測で断定してはいけないだろうけど、恐らくは盗難だったのだろう。
僕の手元に残ったものは、大会で使っていたカナスレだけだった。
(財布や身分証明書は別に保存していたため、こっちは無事だった。ただ、無事だったからこそ、カバンを追える手掛かりは全くない状態だった。)
その日の後半は、茫然自失としながら会場を歩いていた。
周りでやっている試合を見る気も起きなかった。
ショップブースを歩くことも辛かった。
途中、前日クジを引きまくったブースの方に事情を説明したところ、何も言わずに未来予知のパックを2つ譲ってくれた。
(ジョニーのお店さん、本当にありがとうございました。)
そのパックを握りしめながら、僕は会場のトイレで泣いていた。
その後、残酷なまでに穏やかな天気の中、僕はフラフラしながら帰宅した。
それから1週間、仕事を含む日常生活を送れてはいたが、カードをなくしたショックで気もそぞろな状態であった。
毎日のように、MtGを引退すべきか否かを考えていた。
こんな辛い思いをするなら、MtGなんかやらないほうがいいのでは、と。
手元に残ったカナスレも、誰かに譲ることを考えていた。
そのきっかけは、仕事からの帰り道だった。
僕はふと、「何故自分は今こんなに悲しいのか」ということを考えた。
確かに、6桁円のカードの『資産』を失くしたことは、悲しい原因の一つではあった。
ただ、一番の原因が「失くしたカードの中に入っていたデッキを、もう触れないこと」であることに、僕は気付いた。
その時、何かを吹っ切れた気がした。
「なんだ、まだ僕はMtGを楽しむことができるじゃないか」と。
資産云々よりもデッキが大事と思えるなら、まだ大丈夫だ、と。
僕は、再びやり直すことにした。
手元に残った、カナスレとともに。
(続く)
【あとがき】
以上、長くなりましたが、私が盗難でカードのほとんどを失った時のお話でした。
書いてて正直辛かったですが、僕にとってのMtGを語る中で、どうしても外せないエピソードです。
MtGに対する僕の姿勢の、基盤の一つだと思います。
カナスレへの愛着の一因も、ここだったりします。
こんなことがあったので、「カードを資産とは考えないようにする」というのが今の僕の持論です。
なかなかそうは思えないときはあるのですが、このエピソードを思い出しては自戒をしてる次第です。
このDNを見てる人の中に同じような境遇な人はいないと思いますし、そうならないよう願ってはいますが、皆様の心に届くものがあれば、僕の犠牲にも意味があったのかなと思う時もあります。
第7話 http://endlesslord.diarynote.jp/201708271543264414/
2014年4月12日(土)
愛知県名古屋市某所。
僕は、兄からもらった15年物の青いボストンバッグを担ぎ、そこにいた。
GP名古屋2014春。
ショップブースとサイドイベント目的で単独参加したそのイベントは、穏やかな天気の中で始まった。
GP初日となるこの日は、ショップブースでの買い物が主目的。
カナスレにおける対伝説生物用サイドとして《カラカス》を買ったり、2つ目のレガシーデッキを作るための《Bayou》、モダン用のフェッチランドなどを買い漁った。
その後はショップ主催クジをガンガン回しまくり、思う存分散財した。
こう言うと語弊があるかもしれないが、カード資産が増えることだけでなく、散財する行為自体をすごく楽しんでいたことを覚えている。
そんなこんなで僕のボストンバッグに入ったカードは1000枚程度。
その中には《Underground Sea》といった高額カードも含む、自分のデッキほぼすべてが入っていた。
(GP会場でトレードをするかもしれない、という予想だった。)
僕はホクホク顔で、名古屋のカプセルホテルに泊まったのであった。
そして、運命の2014年4月13日。
この日は僕の誕生日ではあったが、後日調べると仏滅。
今思うと、あんなことになってしまったのは必然だったのかもしれない。
その日の目的はレガシーサイドイベントである熊猫杯への参加。
使用デッキは直前まで悩んだが、当時よく使っていたチームアメリカではなく、カナスレを選択した。
既に慣れていたレガシーの大会を、僕は存分に満喫していた。
本気の対戦で、完全に眼前の盤面に集中していた。
ある、重要なことを見落としながら。
熊猫杯、第3回戦終了。
勝てたものの、非常に試合時間が長く、まさに熱戦だった。
僕は対戦相手に礼を言いながら卓上のカードをまとめ、椅子の下に手を入れた。
空振りした。
一瞬、何が起こったかわからなかった。
もう一度手を入れて、空振り。
恐る恐る椅子の下を覗いた僕の目には、何も映らなかった。
僕の、あの青いボストンバッグも。
僕の、1000枚以上のカードが入っていたバッグが。
色んな高額カードが入っていたバッグが。
6桁円もする、僕のカードのほぼすべてが。
消 え て い た 。
それからの記憶は、少し曖昧になっている。
対戦相手の方に必死に確認を取った。
サイドイベントのヘッドジャッジに伝え、どうすればいいかを聞いた。
大会を棄権し、多分泣きそうな顔で、会場運営と話もした。
半分無駄と分かっていながら、クロークに自分のバッグが預けられていないかを確認した。
とにかく会場を走り回り、自分のバッグを捜しまわった。
近くの交番に行き、事情も説明した。
警官の方は事情やカードの価値も理解をしてくださり、紛失届の作成にも親身に協力してくださった。
ただ、届出書類の作成途中で「財布は残ってて、空の箱が入ってる妙なカバンを見つけたんですけど…」という地元の方が来たときは、心が壊れそうだった。
(結局そのカバンは自分のものではなかった。ただ、同じような人がいた、ということは事実だったのだろう。)
結局、カバンを見つけることはできなかった。
憶測で断定してはいけないだろうけど、恐らくは盗難だったのだろう。
僕の手元に残ったものは、大会で使っていたカナスレだけだった。
(財布や身分証明書は別に保存していたため、こっちは無事だった。ただ、無事だったからこそ、カバンを追える手掛かりは全くない状態だった。)
その日の後半は、茫然自失としながら会場を歩いていた。
周りでやっている試合を見る気も起きなかった。
ショップブースを歩くことも辛かった。
途中、前日クジを引きまくったブースの方に事情を説明したところ、何も言わずに未来予知のパックを2つ譲ってくれた。
(ジョニーのお店さん、本当にありがとうございました。)
そのパックを握りしめながら、僕は会場のトイレで泣いていた。
その後、残酷なまでに穏やかな天気の中、僕はフラフラしながら帰宅した。
それから1週間、仕事を含む日常生活を送れてはいたが、カードをなくしたショックで気もそぞろな状態であった。
毎日のように、MtGを引退すべきか否かを考えていた。
こんな辛い思いをするなら、MtGなんかやらないほうがいいのでは、と。
手元に残ったカナスレも、誰かに譲ることを考えていた。
そのきっかけは、仕事からの帰り道だった。
僕はふと、「何故自分は今こんなに悲しいのか」ということを考えた。
確かに、6桁円のカードの『資産』を失くしたことは、悲しい原因の一つではあった。
ただ、一番の原因が「失くしたカードの中に入っていたデッキを、もう触れないこと」であることに、僕は気付いた。
その時、何かを吹っ切れた気がした。
「なんだ、まだ僕はMtGを楽しむことができるじゃないか」と。
資産云々よりもデッキが大事と思えるなら、まだ大丈夫だ、と。
僕は、再びやり直すことにした。
手元に残った、カナスレとともに。
(続く)
【あとがき】
以上、長くなりましたが、私が盗難でカードのほとんどを失った時のお話でした。
書いてて正直辛かったですが、僕にとってのMtGを語る中で、どうしても外せないエピソードです。
MtGに対する僕の姿勢の、基盤の一つだと思います。
カナスレへの愛着の一因も、ここだったりします。
こんなことがあったので、「カードを資産とは考えないようにする」というのが今の僕の持論です。
なかなかそうは思えないときはあるのですが、このエピソードを思い出しては自戒をしてる次第です。
このDNを見てる人の中に同じような境遇な人はいないと思いますし、そうならないよう願ってはいますが、皆様の心に届くものがあれば、僕の犠牲にも意味があったのかなと思う時もあります。
とあるPWの軌跡(7)
2017年8月27日 MtG(その他)とあるプレインズウォーカーの話を続けるとしよう。
第6話 http://endlesslord.diarynote.jp/201708191931441891/
遂に手に入れたカナディアンスレッショルド。
しかし、一人での調整や友人とのスカイプ対戦をしてみると、恐ろしく取り扱いが難しいデッキであることに、僕は気付いた。
まず、マナ基盤が安定しない。
それも当然、土地は18/60。しかもその配分はフェッチランド8、《不毛の大地》4、デュアルランド6。色マナに繋がる土地は実に14枚である。
普段は土地が24/60のデッキを使う僕にとって、最初に必要だったのはマリガン基準の意識改革だった。
マリガン基準改良の次は、プレイ中のマナ管理。
盤面にある土地は終盤でも1~2枚。多くて3枚。この中で何を唱え、どの程度のマナを残して自ターンを終えるか。こればかりは一人回しでは結論を出せなかった。
その次は、最適なクリーチャー展開の戦略。
《秘密を掘り下げるもの》《敏捷なマングース》《タルモゴイフ》が搭載されるクリーチャーだが、それぞれに長所・短所があり、何を優先して出すべきなのか、という点はさっぱり掴めなかった。
特に《タルモゴイフ》は曲者で、前述のマナ管理問題と相まって、どのタイミングでプレイすれば安全に戦えるのか、という点で悩み続けた。
(安直に2ターン目プレイをしてしまうと、サイズが小さく簡単に除去されるだけでなく、カウンター用マナがないために勝負を決められることもあった。)
そんなこんなで色々勉強はしたものの、結局は対人で使わないとわからないと僕は考えた。
そしてついに、僕は復帰以来初の大会にデビューすることにした。
京都某所のショップでのレガシー初大会は、相当緊張したことを覚えている。
対戦相手の方が心配するくらいビクビクしてたし、シャッフルする手もガクガク震えていた。
相手のカードのテキストがわからなくて何回も確認したし、打てないタイミングで呪文を唱えるといった初歩的なミスもした。
結局Bye込の1-2ではあったものの、それでも参加した方々のおかげで大きな問題もなく大会を終えることができた。
(ちなみにこの日の大会で大学時代の同期や某白の人と出会い、幻想ノ宴への道筋が開けたのだが、それはまた別のお話)
それからは、暇を見つけては様々な大会に参加するようになった。
京都某店で開かれていたFriday Night Legacyは予定が許す限り(2週に1回ほど)参加した。
休日に予定がない時は近所のTCGショップに顔を出し、大会がないか店員に聞いて回った。
(残念ながら、当時はレガシー大会をする地方店舗は少なく、肩を落とすこともしばしばだった。)
大阪日本橋にTCGショップが多いと聞いてからは事あるごとに市街地に出て、余裕があれば大会にも参加した。
インターネットで見つけた関西レガシー大会大手、KMCにもどんどん参加した。
KMCを通じて某大学のMtGサークルや、関西の強豪選手とも知り合うことができた。
いつの間にか、グランプリにも顔を出すようになった。
初めて顔を出したグランプリは、GP横浜2013。
大学時代の友人Bとともに、サイドイベントであるレガシー選手権にも参加した。
(300人規模の大会の第2ラウンドで友人と戦う羽目にあったけど。)
試合も楽しかったし、ショップブースを回るのも楽しかった。
(この時、クジで《タルモゴイフ》を当てた。クジ狂いに目覚めたきっかけである。)
それ以来、近場で開催されるグランプリには積極的に参加するようになった。
「休日だけじゃなくて、平日夜にも戦いたい!」と考えた僕は、ニコ生の対戦枠にも顔を出すようになった。
自分でコミュニティは持っていないものの、各コミュニティの配信主さんと戦ったり、コメントを通じて配信主さんやほかの閲覧者さんとの会話で盛り上がった。
グランプリの際に顔合わせをしたり、オフにも参加するようになった。
経験を積むうちに、カナディアンスレッショルドの動かし方もわかってきた。
このデッキは「相手を知れば8割方解決策を見いだせる」デッキであり、「経験を積むほどに強くなる」デッキであることもわかってきた。
それぞれのパーツの使いどころや、相手のデッキの動き方がわかるほどに、勝率も大きく上げてきた。
究極のいぶし銀である《もみ消し》の魅力に取りつかれたのも、この頃であった。
楽しかった。
すごく楽しかった。
学生時代、青緑マッドネスを手に地元ショップで同じ高校の友達と小さくワイワイやるのも楽しかったが、MtGを通じてどんどん世界が広がっていく今も楽しかった。
レガシー以外のプレイヤーの人と楽しむためや、様々な大会に参加するために、スタンダードやモダンにも手を出した。
いつの間にか勧誘もしたいと思い、勧誘用の弱小デッキまで自作し始めた。
〈株券〉と揶揄されてはいたものの、価値があると思い様々なカードを買い集めた。
正確に測ってはいないが、この頃には投資額も6桁を優に超えていた。
そんな幸せの絶頂の中、僕はあの日を迎える。
2014年4月13日。
奇しくも自分の誕生日であるこの日、僕のMtG人生に転機が訪れる。
(続く)
第8話 http://endlesslord.diarynote.jp/201709032309361864/
第6話 http://endlesslord.diarynote.jp/201708191931441891/
遂に手に入れたカナディアンスレッショルド。
しかし、一人での調整や友人とのスカイプ対戦をしてみると、恐ろしく取り扱いが難しいデッキであることに、僕は気付いた。
まず、マナ基盤が安定しない。
それも当然、土地は18/60。しかもその配分はフェッチランド8、《不毛の大地》4、デュアルランド6。色マナに繋がる土地は実に14枚である。
普段は土地が24/60のデッキを使う僕にとって、最初に必要だったのはマリガン基準の意識改革だった。
マリガン基準改良の次は、プレイ中のマナ管理。
盤面にある土地は終盤でも1~2枚。多くて3枚。この中で何を唱え、どの程度のマナを残して自ターンを終えるか。こればかりは一人回しでは結論を出せなかった。
その次は、最適なクリーチャー展開の戦略。
《秘密を掘り下げるもの》《敏捷なマングース》《タルモゴイフ》が搭載されるクリーチャーだが、それぞれに長所・短所があり、何を優先して出すべきなのか、という点はさっぱり掴めなかった。
特に《タルモゴイフ》は曲者で、前述のマナ管理問題と相まって、どのタイミングでプレイすれば安全に戦えるのか、という点で悩み続けた。
(安直に2ターン目プレイをしてしまうと、サイズが小さく簡単に除去されるだけでなく、カウンター用マナがないために勝負を決められることもあった。)
そんなこんなで色々勉強はしたものの、結局は対人で使わないとわからないと僕は考えた。
そしてついに、僕は復帰以来初の大会にデビューすることにした。
京都某所のショップでのレガシー初大会は、相当緊張したことを覚えている。
対戦相手の方が心配するくらいビクビクしてたし、シャッフルする手もガクガク震えていた。
相手のカードのテキストがわからなくて何回も確認したし、打てないタイミングで呪文を唱えるといった初歩的なミスもした。
結局Bye込の1-2ではあったものの、それでも参加した方々のおかげで大きな問題もなく大会を終えることができた。
(ちなみにこの日の大会で大学時代の同期や某白の人と出会い、幻想ノ宴への道筋が開けたのだが、それはまた別のお話)
それからは、暇を見つけては様々な大会に参加するようになった。
京都某店で開かれていたFriday Night Legacyは予定が許す限り(2週に1回ほど)参加した。
休日に予定がない時は近所のTCGショップに顔を出し、大会がないか店員に聞いて回った。
(残念ながら、当時はレガシー大会をする地方店舗は少なく、肩を落とすこともしばしばだった。)
大阪日本橋にTCGショップが多いと聞いてからは事あるごとに市街地に出て、余裕があれば大会にも参加した。
インターネットで見つけた関西レガシー大会大手、KMCにもどんどん参加した。
KMCを通じて某大学のMtGサークルや、関西の強豪選手とも知り合うことができた。
いつの間にか、グランプリにも顔を出すようになった。
初めて顔を出したグランプリは、GP横浜2013。
大学時代の友人Bとともに、サイドイベントであるレガシー選手権にも参加した。
(300人規模の大会の第2ラウンドで友人と戦う羽目にあったけど。)
試合も楽しかったし、ショップブースを回るのも楽しかった。
(この時、クジで《タルモゴイフ》を当てた。クジ狂いに目覚めたきっかけである。)
それ以来、近場で開催されるグランプリには積極的に参加するようになった。
「休日だけじゃなくて、平日夜にも戦いたい!」と考えた僕は、ニコ生の対戦枠にも顔を出すようになった。
自分でコミュニティは持っていないものの、各コミュニティの配信主さんと戦ったり、コメントを通じて配信主さんやほかの閲覧者さんとの会話で盛り上がった。
グランプリの際に顔合わせをしたり、オフにも参加するようになった。
経験を積むうちに、カナディアンスレッショルドの動かし方もわかってきた。
このデッキは「相手を知れば8割方解決策を見いだせる」デッキであり、「経験を積むほどに強くなる」デッキであることもわかってきた。
それぞれのパーツの使いどころや、相手のデッキの動き方がわかるほどに、勝率も大きく上げてきた。
究極のいぶし銀である《もみ消し》の魅力に取りつかれたのも、この頃であった。
楽しかった。
すごく楽しかった。
学生時代、青緑マッドネスを手に地元ショップで同じ高校の友達と小さくワイワイやるのも楽しかったが、MtGを通じてどんどん世界が広がっていく今も楽しかった。
レガシー以外のプレイヤーの人と楽しむためや、様々な大会に参加するために、スタンダードやモダンにも手を出した。
いつの間にか勧誘もしたいと思い、勧誘用の弱小デッキまで自作し始めた。
〈株券〉と揶揄されてはいたものの、価値があると思い様々なカードを買い集めた。
正確に測ってはいないが、この頃には投資額も6桁を優に超えていた。
そんな幸せの絶頂の中、僕はあの日を迎える。
2014年4月13日。
奇しくも自分の誕生日であるこの日、僕のMtG人生に転機が訪れる。
(続く)
第8話 http://endlesslord.diarynote.jp/201709032309361864/
とあるPWの軌跡(6)
2017年8月19日 MtG(その他)とあるプレインズウォーカーの話を続けるとしよう。
第5話 http://endlesslord.diarynote.jp/201707081029369730/
就職してから約一年、僕は自分のデッキを前にして頭を抱えていた。
「どうすれば本格的なレガシーに参入できるんだろう」
それが悩みの発端であった。
デッキを携えて関西に移ったものの、カジュアルレガシーをできる友人は無し。
移住先の近くにTCGショップはあったものの、MtGのコミュニティは十全とは言えず、対戦できる場は相変わらず友人とのボイスチャットしかなかった。
(ちなみにその地元ショップはのちに地域最大級のMtGコミュニティを形成することになる。店員さんの努力に感謝。)
知らない他者と対戦するには、各フォーマットでそれなりに戦えるデッキであるべき。
当時の僕はそう考えていた。
そうなると、手元にあるデッキ・青緑マッドネスでは、レガシー参入においてはどうしても実力不足な点が否めなかった。
コンセプトは強いものの、デッキの始動は《野生の雑種犬》が場に出た2ターン目以降。カードパワーも強大とは言えなかった。
《意志の力》等で補強しようにも、かつてレガシーを席巻していた時代に使われていた《適者生存》はすでに禁止。改良にも限界があった。
「より強い共鳴者や、墓地利用戦略の幅を広げる」という観点の下、《ロッテスのトロール》や《復讐蔦》を組み込んだりしたものの、共鳴者頼りや初動の遅さという弱点はどうしても克服できなかった。
次第に、既に成立しているアーキタイプを模倣して「戦えるレガシーデッキ」を作成することを模索し始めた。
Wiki等を参考に様々な情報を集め、紙の上でデッキを試作し続けた。
ただ、どのデッキにも高額カード(《意志の力》、《タルモゴイフ》、《不毛の大地》、各種デュアルランド等々)が入っており、その入手難度から実際にデッキを組むことは困難に思えた。
「あのカードがあれば作れるかもしれないのに…」という無意味な言葉を口にしながら、悶々とした日々を送り続けた。
そんな時期のある平日の夜。友人Bがチャットであるリンクを送ってきた。
「どうよtolda、突っ込んでみないか?」
そんな一言とともに。
リンク先で表示されたのは、《意志の力》や《タルモゴイフ》といった、レガシーパーツの山が映った画像。
某オークションで出品された、カナディアンスレッショルドのデッキ一式であった。
値段は堂々の6桁。格安の中古車を買えるくらいの数字だった。
(それでも、今と比べれば半額以下)
僕は悩んだ。
確かに自分の原点である青緑が含まれていて、デッキコンセプトも自分の好み。
構想の中でも一番ベースとして上ってきたデッキだった。
それでも、6桁のお金をポンッと出すのは、社会人の僕でも厳しかった。
結局1日悩んだが、僕は覚悟を決めて入札することにした。
落札するまでの約1日は、自分の人生の中でも5本の指に入るほど長く感じる時間だった。
暇があればスマホで他人の入札状況を確認し、自分が落札したい、でも他人が落札したら逆に諦めがつく、という複雑な心境で過ごした。
最終的に自分が落札し、ATMで送金する段階になっても、まだ悩んでいる自分がいたことを記憶している。
そして僕は手に入れた。
人生初のレガシーデッキである、カナディアンスレッショルドを。
実際に自分で一人回しをするときでも、緊張で手が震えた。
Wiki等で何回調べても、それぞれのカードの使い方は理解しきれなかった。
それでも僕には、何となく予感があった。
このデッキが、これからの僕のMtG生活を変えるであろうことを。
(続く)
第7話 http://endlesslord.diarynote.jp/201708271543264414/
第5話 http://endlesslord.diarynote.jp/201707081029369730/
就職してから約一年、僕は自分のデッキを前にして頭を抱えていた。
「どうすれば本格的なレガシーに参入できるんだろう」
それが悩みの発端であった。
デッキを携えて関西に移ったものの、カジュアルレガシーをできる友人は無し。
移住先の近くにTCGショップはあったものの、MtGのコミュニティは十全とは言えず、対戦できる場は相変わらず友人とのボイスチャットしかなかった。
(ちなみにその地元ショップはのちに地域最大級のMtGコミュニティを形成することになる。店員さんの努力に感謝。)
知らない他者と対戦するには、各フォーマットでそれなりに戦えるデッキであるべき。
当時の僕はそう考えていた。
そうなると、手元にあるデッキ・青緑マッドネスでは、レガシー参入においてはどうしても実力不足な点が否めなかった。
コンセプトは強いものの、デッキの始動は《野生の雑種犬》が場に出た2ターン目以降。カードパワーも強大とは言えなかった。
《意志の力》等で補強しようにも、かつてレガシーを席巻していた時代に使われていた《適者生存》はすでに禁止。改良にも限界があった。
「より強い共鳴者や、墓地利用戦略の幅を広げる」という観点の下、《ロッテスのトロール》や《復讐蔦》を組み込んだりしたものの、共鳴者頼りや初動の遅さという弱点はどうしても克服できなかった。
次第に、既に成立しているアーキタイプを模倣して「戦えるレガシーデッキ」を作成することを模索し始めた。
Wiki等を参考に様々な情報を集め、紙の上でデッキを試作し続けた。
ただ、どのデッキにも高額カード(《意志の力》、《タルモゴイフ》、《不毛の大地》、各種デュアルランド等々)が入っており、その入手難度から実際にデッキを組むことは困難に思えた。
「あのカードがあれば作れるかもしれないのに…」という無意味な言葉を口にしながら、悶々とした日々を送り続けた。
そんな時期のある平日の夜。友人Bがチャットであるリンクを送ってきた。
「どうよtolda、突っ込んでみないか?」
そんな一言とともに。
リンク先で表示されたのは、《意志の力》や《タルモゴイフ》といった、レガシーパーツの山が映った画像。
某オークションで出品された、カナディアンスレッショルドのデッキ一式であった。
値段は堂々の6桁。格安の中古車を買えるくらいの数字だった。
(それでも、今と比べれば半額以下)
僕は悩んだ。
確かに自分の原点である青緑が含まれていて、デッキコンセプトも自分の好み。
構想の中でも一番ベースとして上ってきたデッキだった。
それでも、6桁のお金をポンッと出すのは、社会人の僕でも厳しかった。
結局1日悩んだが、僕は覚悟を決めて入札することにした。
落札するまでの約1日は、自分の人生の中でも5本の指に入るほど長く感じる時間だった。
暇があればスマホで他人の入札状況を確認し、自分が落札したい、でも他人が落札したら逆に諦めがつく、という複雑な心境で過ごした。
最終的に自分が落札し、ATMで送金する段階になっても、まだ悩んでいる自分がいたことを記憶している。
そして僕は手に入れた。
人生初のレガシーデッキである、カナディアンスレッショルドを。
実際に自分で一人回しをするときでも、緊張で手が震えた。
Wiki等で何回調べても、それぞれのカードの使い方は理解しきれなかった。
それでも僕には、何となく予感があった。
このデッキが、これからの僕のMtG生活を変えるであろうことを。
(続く)
第7話 http://endlesslord.diarynote.jp/201708271543264414/
とあるPWの軌跡(5)
2017年7月8日 MtG(その他)とあるプレインズウォーカーの話を続けるとしよう。
第4話 http://endlesslord.diarynote.jp/201707022101208673/
2008年、東京某所。
大学生活を満喫していた僕は友人宅にて、友人二人が地球〇衛軍2を楽しんでいるかたわら、友人PCでブロック崩しをしていた。
(よくわからない状況と思うだろうが、僕もなぜこんな状況だったのかわからない)
ブロック崩しがひと段落し、ふと棚を見ると、見覚えのある紙があった。
茶色の背景に5色の丸、大きく書かれた5つのアルファベット。
何となく手に取り、表を見ると見覚えのある刃っぽい体の生物。
スリヴァーだった。
「あれ、toldaってギャザに興味ある?」
それが、僕を再び多元宇宙に呼び戻す言葉となった。
話を聞いたところ、友人は2人とも過去にMtGをやっていた、言わば僕と同じような境遇だった。
その中の友人Aは、上京の際に実家から何となく自分のデッキを持ってきたとのこと。
中身は、カウンタースリヴァーと、スリヴァービートダウン。完全なスリヴァー狂だった。
一方の友人Bも実家にデッキを置いてあるらしい(こちらはエルフ)。
そこで、次の長期休暇までにそれぞれのデッキを持ち寄ることになった。
そんなこんなで始まった、インターネットでルールを確認しながら始まった異種スタン混合フリープレイ。
ルール変更に戸惑いながらも、当然ながら楽しかった。
(一番ショックだったのは、ダメージスタック制度が廃止されていたこと。ドヤ顔でブロッククリーチャー指定後に自分の《野生の雑種犬》に《霊気の噴出》を撃ったら「あ、今だと当て逃げできないんで無駄打ちだね」と言われ真顔になったことを憶えている。)
1日楽しんだ後、3人とも当時のスタンダードや他のフォーマットに興味を持ち始めた。
調べてみると、自分たちが慣れ親しんだカード(テンペスト期~オデッセイ期)も使えるレガシーというフォーマットを見つけた。
このフォーマットなら、今からでも楽しめるのではないか。
そう考えた僕らは、近くのTCGショップ(東京なので数は多かった)やネットオークション(人気高額カードよりは、過去のエキスパンションカード詰め合わせをよく探した)でカードを買い集めた。
デッキを作っては遊び、ネットで情報を集めては違うカードを買い、大学にいる他の友人に声をかけて仲間に入れ…。
いつの間にか、MtGは僕の大学生活の大きなウェイトを占めるようになった。
(講義や研究室の都合上、流石にMtGのみというわけにはいかなかった)
ただこの頃は、大会のような「自分の知らない人と戦う」場には参加しなかった。
あくまで友人同士の遊びであり、レガシーといっても旧スタンに毛が生えた程度の、カジュアルレガシーそのものだった。
(僕の場合、《霧深い雨林》と《梅沢の十手》を足しただけの青緑マッドネスがメインデッキだった。)
それでも、アルバイトで稼いだお金を突っ込んで買った大量のカードのおかげで様々なデッキを作ることができたこともあり、飽きることはなかった。
改良型青緑マッドネスで《修繕》入りの青茶単と戦うといった恐ろしいこともしていたが、やはり楽しかった。
(ちなみにこのマッチの勝敗は五分五分だった。サイドボードの《帰化》のおかげである。)
そのうち、研究室配属で実験等に明け暮れるうち、次第に遊べる時間も減っていったが、MtGを辞めることはなかった。
ネットの発達のおかげで、情報収集に困ることもなかったし、同様に忙しくなった友人たちともチャット等でMtGの話題で盛り上がることができた。
最終的に、大学卒業後の就職先の関係で友人たちと離れることになったが、それでもデッキは手放さなかった。
友人たちとはネットでいつでも連絡をとれる状態だったし、東京のTCGショップの盛況ぶりを見た後で、別の地方に行ってもMtGをやる場所はあるだろう、と考えることができたから。
今思うと、自分の成長や時代の流れが、僕とMtGを繋ぎとめてくれたのだろう。
こんな感じで、僕の大学MtG生活はカジュアルレガシープレイヤーとして幕を閉じた。
結局大会には出なかったし、レガシープレイヤーと言いながらデュアルランドを1枚も持っていない、単なる「下手の横好き」のまま、東京を離れることになった。
就職先は、関西。
最初は慣れない社会人生活で、誰かと対戦することもなかった。
ただ、MtGに関する情報収集と、大学時代の友人との交流は続けていた。
そんななか、ネットオークションで見つけた1つの出品。
それが、カジュアルレガシープレイヤーだった僕をレガシープレイヤーへと変えるきっかけとなる。
(続く)
第6話 http://endlesslord.diarynote.jp/201708191931441891/
第4話 http://endlesslord.diarynote.jp/201707022101208673/
2008年、東京某所。
大学生活を満喫していた僕は友人宅にて、友人二人が地球〇衛軍2を楽しんでいるかたわら、友人PCでブロック崩しをしていた。
(よくわからない状況と思うだろうが、僕もなぜこんな状況だったのかわからない)
ブロック崩しがひと段落し、ふと棚を見ると、見覚えのある紙があった。
茶色の背景に5色の丸、大きく書かれた5つのアルファベット。
何となく手に取り、表を見ると見覚えのある刃っぽい体の生物。
スリヴァーだった。
「あれ、toldaってギャザに興味ある?」
それが、僕を再び多元宇宙に呼び戻す言葉となった。
話を聞いたところ、友人は2人とも過去にMtGをやっていた、言わば僕と同じような境遇だった。
その中の友人Aは、上京の際に実家から何となく自分のデッキを持ってきたとのこと。
中身は、カウンタースリヴァーと、スリヴァービートダウン。完全なスリヴァー狂だった。
一方の友人Bも実家にデッキを置いてあるらしい(こちらはエルフ)。
そこで、次の長期休暇までにそれぞれのデッキを持ち寄ることになった。
そんなこんなで始まった、インターネットでルールを確認しながら始まった異種スタン混合フリープレイ。
ルール変更に戸惑いながらも、当然ながら楽しかった。
(一番ショックだったのは、ダメージスタック制度が廃止されていたこと。ドヤ顔でブロッククリーチャー指定後に自分の《野生の雑種犬》に《霊気の噴出》を撃ったら「あ、今だと当て逃げできないんで無駄打ちだね」と言われ真顔になったことを憶えている。)
1日楽しんだ後、3人とも当時のスタンダードや他のフォーマットに興味を持ち始めた。
調べてみると、自分たちが慣れ親しんだカード(テンペスト期~オデッセイ期)も使えるレガシーというフォーマットを見つけた。
このフォーマットなら、今からでも楽しめるのではないか。
そう考えた僕らは、近くのTCGショップ(東京なので数は多かった)やネットオークション(人気高額カードよりは、過去のエキスパンションカード詰め合わせをよく探した)でカードを買い集めた。
デッキを作っては遊び、ネットで情報を集めては違うカードを買い、大学にいる他の友人に声をかけて仲間に入れ…。
いつの間にか、MtGは僕の大学生活の大きなウェイトを占めるようになった。
(講義や研究室の都合上、流石にMtGのみというわけにはいかなかった)
ただこの頃は、大会のような「自分の知らない人と戦う」場には参加しなかった。
あくまで友人同士の遊びであり、レガシーといっても旧スタンに毛が生えた程度の、カジュアルレガシーそのものだった。
(僕の場合、《霧深い雨林》と《梅沢の十手》を足しただけの青緑マッドネスがメインデッキだった。)
それでも、アルバイトで稼いだお金を突っ込んで買った大量のカードのおかげで様々なデッキを作ることができたこともあり、飽きることはなかった。
改良型青緑マッドネスで《修繕》入りの青茶単と戦うといった恐ろしいこともしていたが、やはり楽しかった。
(ちなみにこのマッチの勝敗は五分五分だった。サイドボードの《帰化》のおかげである。)
そのうち、研究室配属で実験等に明け暮れるうち、次第に遊べる時間も減っていったが、MtGを辞めることはなかった。
ネットの発達のおかげで、情報収集に困ることもなかったし、同様に忙しくなった友人たちともチャット等でMtGの話題で盛り上がることができた。
最終的に、大学卒業後の就職先の関係で友人たちと離れることになったが、それでもデッキは手放さなかった。
友人たちとはネットでいつでも連絡をとれる状態だったし、東京のTCGショップの盛況ぶりを見た後で、別の地方に行ってもMtGをやる場所はあるだろう、と考えることができたから。
今思うと、自分の成長や時代の流れが、僕とMtGを繋ぎとめてくれたのだろう。
こんな感じで、僕の大学MtG生活はカジュアルレガシープレイヤーとして幕を閉じた。
結局大会には出なかったし、レガシープレイヤーと言いながらデュアルランドを1枚も持っていない、単なる「下手の横好き」のまま、東京を離れることになった。
就職先は、関西。
最初は慣れない社会人生活で、誰かと対戦することもなかった。
ただ、MtGに関する情報収集と、大学時代の友人との交流は続けていた。
そんななか、ネットオークションで見つけた1つの出品。
それが、カジュアルレガシープレイヤーだった僕をレガシープレイヤーへと変えるきっかけとなる。
(続く)
第6話 http://endlesslord.diarynote.jp/201708191931441891/
とあるPWの軌跡(4)
2017年7月2日 MtG(その他) コメント (2)とあるプレインズウォーカーの話を続けるとしよう。
第3話 http://endlesslord.diarynote.jp/201706101843432655/
青緑マッドネス。
僕は、友人の家で、ショップのデュエルスペースで、学校で(隠れて)そのデッキを使い続けた。
そんな楽しかった時は、ある時急に終わりを迎えた。
2002年11月 オンスロート発売
それに伴い、インベイジョンブロックがスタン落ち
僕がMtGに触れてから、はじめてのスタン落ち。
(正確にはマスクスブロックのスタン落ちにも遭遇しているが、その時はまだ満足にデッキも組めておらず、影響もなかった。)
基本的にほぼすべてのカードをオデッセイブロックで固めていた僕の青緑マッドネスにとって、今回も影響はないと思っていた。
しかし、たった1枚、でも致命的な1枚が消えた。
ヤヴィマヤの沿岸。
多色デッキの命綱である2色土地を、僕は失うことになった。
当時、対抗色のマナを生成する土地は2種類しかなかった。
アポカリプスの対抗色ペインランドか、真鍮の都だ。
インベイジョンスタン落ちの時、僕は真鍮の都を持っていなかった。
今でこそ手頃な価格となっているこのカードだが、当時は4桁円する高額カードだった。
当時のお小遣いで2ヵ月分もするそのカードを、僕は買うことが出来なかった。
必然的に基本土地のみとなった僕のデッキは、事故を多発するようになる。
さらにオンスロートブロックへの突入は、環境のデッキ構築概念と価値観を変化させていった。
(それこそがスタン落ちの意義ではあるのだが)
アポカリプスの消滅は対抗色は再び同じデッキに入れにくくし、辛うじてフェッチランドで対応可能な友好色についても、多くの多色カードの消失によりメタは一気に変化していく。
オンスロートで焦点の充てられた部族デッキはどんどん増える。
余りに変化していく環境に、僕は次第についていけなくなっていた。
余談だが、当時の僕は「フェッチランドは弱い」と考えていた。
直前に落ちたペインランドと違い、友好色の土地しか選択できない。
しかも一度起動して片方の基本土地を持ってくると、もう片方には触れない。
「明らかにペインランドの下位互換だ」と、声を大にして主張していたことを覚えている。
知らなかったのだ、当時の僕は。
その昔、デュアルランドというカードが存在していたという事実を。
話を戻すと、環境についていけなかったのは僕だけではなかった。
いや、インベイジョンブロックのカードに依存していた周りの友人たちのほうが、僕よりも状況は深刻だった。
少ない所持金を使って再びカードを買い集めなくてはならない。
しかも、自分が慣れ親しんだモノとは異なるデッキを作るために。
気付けば、1人、また1人と、MtGを辞めていった。
誰もが、TVゲームに、カラオケに、ボウリングに、ゲーセンに、部活に傾倒するようになった。
(恋愛?ウチは男子校だ、いい加減にしろ)
周りのプレイヤーがほとんど消え、第8版の情報(友好色ペインランドもなくなるという事実)を耳にしたころ、僕も引退を決意した。
あれだけ使っていた青緑マッドネスは、ほかのカードとともに段ボール箱のなかで眠りにつくこととなった。
僕から、プレインズウォーカーの灯が消えた瞬間だった。
それからの僕は、周りの友人と同じように、ゲームに、部活に、学校行事に、勉学に励むようになった。
MtGを辞めたことについて、寂しさも後悔もなかった。
寂しさを感じるほど、日常が退屈なわけでもなかった。
僕はそのまま、中学・高校時代を平凡に過ごしていった。
それから数年後、僕は東京にいた。
運良く東京の大学に合格し、独り暮らしを満喫していた。
複数のサークルに加入したし、それなりに講義は頑張って受けたし、交友関係も普通に持っていた。
友人たちの誘いで、いわゆるオタクジャンルにもいつの間にか手を出すようになっていた。
中学・高校時代とは多少変わってはいたが、普通の生活を送っていた。
あの日、友人の家であのカード裏面を見るまでは…。
(続く)
第5話 http://endlesslord.diarynote.jp/201707081029369730/
【あとがき】
はい、私の第1次現役時代の終焉でした。
今思うと「スタン落ち程度で」と言われるかもしれませんが、月数万使える今とは違い、お小遣いの少ない当時の僕にとっては完全に死活問題だったわけです。
今でも高校生以下のプレイヤーが少ないところを見ると、古今東西問わずぶち当たってしまうMtGの、ひいてはTCGの壁なのかなと思ってしまいます。
さて、次は復帰の物語です。
と言っても、GP参加とかはまだまだ先の話なんですが。
第3話 http://endlesslord.diarynote.jp/201706101843432655/
青緑マッドネス。
僕は、友人の家で、ショップのデュエルスペースで、学校で(隠れて)そのデッキを使い続けた。
そんな楽しかった時は、ある時急に終わりを迎えた。
2002年11月 オンスロート発売
それに伴い、インベイジョンブロックがスタン落ち
僕がMtGに触れてから、はじめてのスタン落ち。
(正確にはマスクスブロックのスタン落ちにも遭遇しているが、その時はまだ満足にデッキも組めておらず、影響もなかった。)
基本的にほぼすべてのカードをオデッセイブロックで固めていた僕の青緑マッドネスにとって、今回も影響はないと思っていた。
しかし、たった1枚、でも致命的な1枚が消えた。
ヤヴィマヤの沿岸。
多色デッキの命綱である2色土地を、僕は失うことになった。
当時、対抗色のマナを生成する土地は2種類しかなかった。
アポカリプスの対抗色ペインランドか、真鍮の都だ。
インベイジョンスタン落ちの時、僕は真鍮の都を持っていなかった。
今でこそ手頃な価格となっているこのカードだが、当時は4桁円する高額カードだった。
当時のお小遣いで2ヵ月分もするそのカードを、僕は買うことが出来なかった。
必然的に基本土地のみとなった僕のデッキは、事故を多発するようになる。
さらにオンスロートブロックへの突入は、環境のデッキ構築概念と価値観を変化させていった。
(それこそがスタン落ちの意義ではあるのだが)
アポカリプスの消滅は対抗色は再び同じデッキに入れにくくし、辛うじてフェッチランドで対応可能な友好色についても、多くの多色カードの消失によりメタは一気に変化していく。
オンスロートで焦点の充てられた部族デッキはどんどん増える。
余りに変化していく環境に、僕は次第についていけなくなっていた。
余談だが、当時の僕は「フェッチランドは弱い」と考えていた。
直前に落ちたペインランドと違い、友好色の土地しか選択できない。
しかも一度起動して片方の基本土地を持ってくると、もう片方には触れない。
「明らかにペインランドの下位互換だ」と、声を大にして主張していたことを覚えている。
知らなかったのだ、当時の僕は。
その昔、デュアルランドというカードが存在していたという事実を。
話を戻すと、環境についていけなかったのは僕だけではなかった。
いや、インベイジョンブロックのカードに依存していた周りの友人たちのほうが、僕よりも状況は深刻だった。
少ない所持金を使って再びカードを買い集めなくてはならない。
しかも、自分が慣れ親しんだモノとは異なるデッキを作るために。
気付けば、1人、また1人と、MtGを辞めていった。
誰もが、TVゲームに、カラオケに、ボウリングに、ゲーセンに、部活に傾倒するようになった。
(恋愛?ウチは男子校だ、いい加減にしろ)
周りのプレイヤーがほとんど消え、第8版の情報(友好色ペインランドもなくなるという事実)を耳にしたころ、僕も引退を決意した。
あれだけ使っていた青緑マッドネスは、ほかのカードとともに段ボール箱のなかで眠りにつくこととなった。
僕から、プレインズウォーカーの灯が消えた瞬間だった。
それからの僕は、周りの友人と同じように、ゲームに、部活に、学校行事に、勉学に励むようになった。
MtGを辞めたことについて、寂しさも後悔もなかった。
寂しさを感じるほど、日常が退屈なわけでもなかった。
僕はそのまま、中学・高校時代を平凡に過ごしていった。
それから数年後、僕は東京にいた。
運良く東京の大学に合格し、独り暮らしを満喫していた。
複数のサークルに加入したし、それなりに講義は頑張って受けたし、交友関係も普通に持っていた。
友人たちの誘いで、いわゆるオタクジャンルにもいつの間にか手を出すようになっていた。
中学・高校時代とは多少変わってはいたが、普通の生活を送っていた。
あの日、友人の家であのカード裏面を見るまでは…。
(続く)
第5話 http://endlesslord.diarynote.jp/201707081029369730/
【あとがき】
はい、私の第1次現役時代の終焉でした。
今思うと「スタン落ち程度で」と言われるかもしれませんが、月数万使える今とは違い、お小遣いの少ない当時の僕にとっては完全に死活問題だったわけです。
今でも高校生以下のプレイヤーが少ないところを見ると、古今東西問わずぶち当たってしまうMtGの、ひいてはTCGの壁なのかなと思ってしまいます。
さて、次は復帰の物語です。
と言っても、GP参加とかはまだまだ先の話なんですが。
とあるPWの軌跡(3)
2017年6月10日 MtG(その他)とあるプレインズウォーカーの話を続けるとしよう。
第2話 http://endlesslord.diarynote.jp/201706042014167423/
オデッセイ 2001年10月発売
新ルール フラッシュバック、スレッショルド
2002年初め、僕は赤緑スレッショルド入りステロイドを使っていた。
マナクリーチャーで加速しつつ墓地を肥やし《敏捷なマングース》や《熊人間》をクロッカーに変貌させながら殴り切るデッキだ。
この頃にはルールもデッキ内シナジーも把握できており、「手札を捨てて墓地を増やす」ことは単純なディスアドバンテージではないと理解していた。
「オデッセイブロックは墓地がテーマ」
そう言われる中、ブロック第2エキスパンションであるトーメントにはどんなルールが入るんだろうとワクワクしていたことを記憶している。
そして、その時は訪れる。
トーメント 2002年2月発売
新ルール マッドネス
初めてマッドネスのルールを知ったとき、流石の僕も混乱した。
特に「捨てたときって、クリーチャーを相手ターンエンド前に落としてもマッドネス唱えられるの?」という点が、瞬速使いでない自分にとっては受け入れにくいものだった。
(ちなみにマッドネスのスタック上ルールは今でも複雑、Wiki参照)
そのうちルールは理解したものの、前述のステロイドがある程度戦えていたこともあり、早々にデッキが変わることもなかった。
あれは、いつの「ぎゃざ」だっただろうか?
友達から譲ってもらったその雑誌をボーっと眺めていた時に、その記事はあった。
「Ken Ho選手、プロツアー大阪(ブロック構築)にて青緑マッドネスを使って優勝!」
記事をスルーしようとして、二度見したことを覚えている。
そこに書いてあったデッキリストは、余りに美しかった。
高速でクリーチャーを展開しながら、打ち消しとバウンスを駆使して殴り切る…。
自分の出発点だった「奇襲」と共通していたそのデッキに、すぐに魅了された。
幸運だったのは、曲がりなりにも同じようなデッキをすぐ作れたことだった。
完成した僕の青緑マッドネス(スタンダード)は、「速い」「安い」「強い」を兼ね備えた素晴らしいデッキへと成長していった。
「速い」のはクリーチャーの展開速度であり、デッキの回転が良いときは、《日を浴びるルートワラ》×2、《野生の雑種犬》、《尊大なワーム》、6/6 ワームトークン(《ワームの咆哮》のフラッシュバック)を各ターンにて順番に展開することができた。
赤緑ステロイドも早かったが、マナクリーチャーが入ってないこのデッキで同等以上の速度を出せたことは驚きだった。
「安い」とは構築のための費用であり、事実搭載されているレアは《ヤヴィマヤの沿岸》だけであった。
それほどの安さなのに「強い」。当時のトップメタであり、多くの高額カードを搭載していた激動サイカトグデッキ相手でも全く引けを取らなかった。
《堂々巡り》によるカウンター、《霊気の噴出》によるバウンスといった対策カードに、《入念な研究》や《綿密な分析》といったドローサポートまであった。
直接クリーチャーを除去することはできなかったが、このデッキは本当に「何でもできた」。
「万能」という概念に憧れを持っていた僕は、その学生時代のほとんどにおいて、このデッキを愛用して戦い続けた。
トーメント発売当初からその強さ・万能さの兆しを見せていた青緑マッドネスだったが、ブロック第3エキスパンションであるジャッジメントでさらに追い風となった。
青のインカーネーション、《不可思議》の収録。
クリーチャーとしては普通だが、墓地に落ちれば「島をコントロールしている限り、自軍の全クリーチャーが飛行を持つ」という、とんでもない性能。
早い段階で《入念な研究》や《野生の雑種犬》から意図的に墓地に落とせば、5ターン目に6/6飛行ワームが殴りかかるという驚異的な状況を作り出せた。
(当時から思っていたが、羽の生えたワームというのは想像すると怖い)
さらに強くなったこのデッキを使いつづけることで、僕の戦績も勝率6割ほどになった。
勝てることが楽しかった。
自分が好きなことをして戦えることが楽しかった。
何よりも、友達や対戦相手と話をしながら、悩み考えながら対戦し、最後は笑って終われるという、MtGの文化が楽しかった。
こうして、青緑マッドネスとともに2002年を走り続けたtolda。
しかし翌年、2003年に転機が訪れる。
(続く)
第4話 http://endlesslord.diarynote.jp/201707022101208673/
【あとがき】
ということで、〇学生時代の私のMtG青春絶頂期の話でした。
今思うと青緑マッドネスって相当チートでしたね…。
ただ、トップメタが激動サイカトグとかいう酷いデッキだったこともあり、結局叩かれませんでしたが。
せっかくですので、当時のデッキを覚えている限り再現しました。
// Lands
9 Island
11 Forest
4 Yavimaya Coast
// Creatures
4 Basking Rootwalla
4 Wild Mongrel
4 Aquamoeba
1 Merfolk Looter
4 Arrogant Wurm
2 Wonder
// Spells
4 Careful Study
4 Aether Burst
4 Circular Logic
2 Roar of the Wurm
2 Deep Analisys
1 Urpheaval
サイドボードには《たい肥》とか《幻影のケンタウロス》のような黒対策を多く入れていたと記憶しています。
プロツアー大阪02優勝者であるKen Hoのデッキや、本デッキの基本コンセプトはMtG Wikiを参照ください。
さて、今回はドはまりしていた時代を書きましたが、次回から少しずつ暗めの内容になりますのでご注意を。
第2話 http://endlesslord.diarynote.jp/201706042014167423/
オデッセイ 2001年10月発売
新ルール フラッシュバック、スレッショルド
2002年初め、僕は赤緑スレッショルド入りステロイドを使っていた。
マナクリーチャーで加速しつつ墓地を肥やし《敏捷なマングース》や《熊人間》をクロッカーに変貌させながら殴り切るデッキだ。
この頃にはルールもデッキ内シナジーも把握できており、「手札を捨てて墓地を増やす」ことは単純なディスアドバンテージではないと理解していた。
「オデッセイブロックは墓地がテーマ」
そう言われる中、ブロック第2エキスパンションであるトーメントにはどんなルールが入るんだろうとワクワクしていたことを記憶している。
そして、その時は訪れる。
トーメント 2002年2月発売
新ルール マッドネス
初めてマッドネスのルールを知ったとき、流石の僕も混乱した。
特に「捨てたときって、クリーチャーを相手ターンエンド前に落としてもマッドネス唱えられるの?」という点が、瞬速使いでない自分にとっては受け入れにくいものだった。
(ちなみにマッドネスのスタック上ルールは今でも複雑、Wiki参照)
そのうちルールは理解したものの、前述のステロイドがある程度戦えていたこともあり、早々にデッキが変わることもなかった。
あれは、いつの「ぎゃざ」だっただろうか?
友達から譲ってもらったその雑誌をボーっと眺めていた時に、その記事はあった。
「Ken Ho選手、プロツアー大阪(ブロック構築)にて青緑マッドネスを使って優勝!」
記事をスルーしようとして、二度見したことを覚えている。
そこに書いてあったデッキリストは、余りに美しかった。
高速でクリーチャーを展開しながら、打ち消しとバウンスを駆使して殴り切る…。
自分の出発点だった「奇襲」と共通していたそのデッキに、すぐに魅了された。
幸運だったのは、曲がりなりにも同じようなデッキをすぐ作れたことだった。
完成した僕の青緑マッドネス(スタンダード)は、「速い」「安い」「強い」を兼ね備えた素晴らしいデッキへと成長していった。
「速い」のはクリーチャーの展開速度であり、デッキの回転が良いときは、《日を浴びるルートワラ》×2、《野生の雑種犬》、《尊大なワーム》、6/6 ワームトークン(《ワームの咆哮》のフラッシュバック)を各ターンにて順番に展開することができた。
赤緑ステロイドも早かったが、マナクリーチャーが入ってないこのデッキで同等以上の速度を出せたことは驚きだった。
「安い」とは構築のための費用であり、事実搭載されているレアは《ヤヴィマヤの沿岸》だけであった。
それほどの安さなのに「強い」。当時のトップメタであり、多くの高額カードを搭載していた激動サイカトグデッキ相手でも全く引けを取らなかった。
《堂々巡り》によるカウンター、《霊気の噴出》によるバウンスといった対策カードに、《入念な研究》や《綿密な分析》といったドローサポートまであった。
直接クリーチャーを除去することはできなかったが、このデッキは本当に「何でもできた」。
「万能」という概念に憧れを持っていた僕は、その学生時代のほとんどにおいて、このデッキを愛用して戦い続けた。
トーメント発売当初からその強さ・万能さの兆しを見せていた青緑マッドネスだったが、ブロック第3エキスパンションであるジャッジメントでさらに追い風となった。
青のインカーネーション、《不可思議》の収録。
クリーチャーとしては普通だが、墓地に落ちれば「島をコントロールしている限り、自軍の全クリーチャーが飛行を持つ」という、とんでもない性能。
早い段階で《入念な研究》や《野生の雑種犬》から意図的に墓地に落とせば、5ターン目に6/6飛行ワームが殴りかかるという驚異的な状況を作り出せた。
(当時から思っていたが、羽の生えたワームというのは想像すると怖い)
さらに強くなったこのデッキを使いつづけることで、僕の戦績も勝率6割ほどになった。
勝てることが楽しかった。
自分が好きなことをして戦えることが楽しかった。
何よりも、友達や対戦相手と話をしながら、悩み考えながら対戦し、最後は笑って終われるという、MtGの文化が楽しかった。
こうして、青緑マッドネスとともに2002年を走り続けたtolda。
しかし翌年、2003年に転機が訪れる。
(続く)
第4話 http://endlesslord.diarynote.jp/201707022101208673/
【あとがき】
ということで、〇学生時代の私のMtG青春絶頂期の話でした。
今思うと青緑マッドネスって相当チートでしたね…。
ただ、トップメタが激動サイカトグとかいう酷いデッキだったこともあり、結局叩かれませんでしたが。
せっかくですので、当時のデッキを覚えている限り再現しました。
// Lands
9 Island
11 Forest
4 Yavimaya Coast
// Creatures
4 Basking Rootwalla
4 Wild Mongrel
4 Aquamoeba
1 Merfolk Looter
4 Arrogant Wurm
2 Wonder
// Spells
4 Careful Study
4 Aether Burst
4 Circular Logic
2 Roar of the Wurm
2 Deep Analisys
1 Urpheaval
サイドボードには《たい肥》とか《幻影のケンタウロス》のような黒対策を多く入れていたと記憶しています。
プロツアー大阪02優勝者であるKen Hoのデッキや、本デッキの基本コンセプトはMtG Wikiを参照ください。
さて、今回はドはまりしていた時代を書きましたが、次回から少しずつ暗めの内容になりますのでご注意を。
とあるPWの軌跡(2)
2017年6月4日 MtG(その他)とあるプレインズウォーカーの話を続けるとしよう。
第1話 http://endlesslord.diarynote.jp/201705282316035778/
アポカリプスの構築済みデッキ「奇襲」を手にした僕は、友人と情報を交換しながら少しずつデッキをチューニングしていった。
まず手を付けたのは白だった。
当時の緑白には《アルマジロの外套》(+3/+3、トランプル付与のオーラエンチャント)が存在しており、その圧倒的な強さに僕は惹かれた。
また白は正義の色ということで、純粋な少年だった僕にはとても魅力的だった。
(白は「正義を押し付ける色」ということを知るのはもう少し先のこと)
こうして、「奇襲」デッキに白を足したトリーヴァカラーデッキが完成した。
(バントという名前が出てくるのももう少し先のこと)
しかし、当時は高めだったペインランドが入っていないこともあり、色事故を多発。
考えた末、使いこなせなかった青を除いた白緑ビートダウンへと変わっていった。
この白緑をある程度使っていくうち、相手のクリーチャーを除去できないことに不満を抱くようになっていった。
また、マナクリは入っているものの中速デッキであり、動きが緩慢なところも気になった。
そして僕は赤に注目した。
当時流行していたファイアーズに似た赤緑ステロイドデッキを作成し、上記の悩みを克服した。
ちなみに、黒には一切手を出さなかった。
自分にとって黒=悪だったうえ、自分のライフを削って戦うというスタイルがどうしても好きになれなかった。
この頃になるとデッキ内のシナジーに気を使うようになり、様々な情報を集めるようになっていた。
ネット環境がなかった我が家では、友人が印刷してくれたカードリスト(1エキスパンションにつきA4用紙50枚ほど)を読みふけった。
引退したという別の友人が格安で譲ってくれた1000枚以上のカードの束(既にスタンダード落ち)を一枚ずつ眺め続けた。
学校では、暇なときにノートにデッキリストを書き、いつの間にか増えていた友人プレイヤー数名と議論を行った。
毎週のようにショップに通い、少ないお小遣いでパックを買ったり、大会に参加したりした。
勝てるようなデッキではなかったが、それはそれで楽しかった。
そして時は流れ、2002年2月。
オデッセイブロック第2エキスパンション、トーメント発売。
この後、僕は運命のデッキに出会うこととなる。
(続く)
第3話 http://endlesslord.diarynote.jp/201706101843432655/
第1話 http://endlesslord.diarynote.jp/201705282316035778/
アポカリプスの構築済みデッキ「奇襲」を手にした僕は、友人と情報を交換しながら少しずつデッキをチューニングしていった。
まず手を付けたのは白だった。
当時の緑白には《アルマジロの外套》(+3/+3、トランプル付与のオーラエンチャント)が存在しており、その圧倒的な強さに僕は惹かれた。
また白は正義の色ということで、純粋な少年だった僕にはとても魅力的だった。
(白は「正義を押し付ける色」ということを知るのはもう少し先のこと)
こうして、「奇襲」デッキに白を足したトリーヴァカラーデッキが完成した。
(バントという名前が出てくるのももう少し先のこと)
しかし、当時は高めだったペインランドが入っていないこともあり、色事故を多発。
考えた末、使いこなせなかった青を除いた白緑ビートダウンへと変わっていった。
この白緑をある程度使っていくうち、相手のクリーチャーを除去できないことに不満を抱くようになっていった。
また、マナクリは入っているものの中速デッキであり、動きが緩慢なところも気になった。
そして僕は赤に注目した。
当時流行していたファイアーズに似た赤緑ステロイドデッキを作成し、上記の悩みを克服した。
ちなみに、黒には一切手を出さなかった。
自分にとって黒=悪だったうえ、自分のライフを削って戦うというスタイルがどうしても好きになれなかった。
この頃になるとデッキ内のシナジーに気を使うようになり、様々な情報を集めるようになっていた。
ネット環境がなかった我が家では、友人が印刷してくれたカードリスト(1エキスパンションにつきA4用紙50枚ほど)を読みふけった。
引退したという別の友人が格安で譲ってくれた1000枚以上のカードの束(既にスタンダード落ち)を一枚ずつ眺め続けた。
学校では、暇なときにノートにデッキリストを書き、いつの間にか増えていた友人プレイヤー数名と議論を行った。
毎週のようにショップに通い、少ないお小遣いでパックを買ったり、大会に参加したりした。
勝てるようなデッキではなかったが、それはそれで楽しかった。
そして時は流れ、2002年2月。
オデッセイブロック第2エキスパンション、トーメント発売。
この後、僕は運命のデッキに出会うこととなる。
(続く)
第3話 http://endlesslord.diarynote.jp/201706101843432655/
とあるPWの軌跡(1)
2017年5月28日 MtG(その他)とあるプレインズウォーカーの話をするとしよう。
時は西暦2001年、〇学生だったその少年は友人にこう声を掛けられた。
「ギャザって知ってる?」
少年にとっては初めて聞いた単語だった。
そもそも少年にとって、TCGなど未知の存在だった。
(〇戯王がすでに流行していたが、当時も今もルールはわからない)
何となく興味を持った少年は、友人と数駅先にあるというお店に向かうことにした。
「ギャザには5色の属性みたいなのがあるんだ!好きな色を2つ選んでよ!」
友人に5つの色(当然、白・青・黒・赤・緑)を提示された。
当時はアポカリプスが発売した直後で、有効・敵対色関係なく2色を使ってデッキを作ることは容易いほうだった。
友人もそのつもりだったのだろう。
各色の役割も教わらずに出された質問。
少年は少し悩んだが、ただ好きな色のみを直感で答えた。
「・・・青と・・・緑かな!」
少年toldaにプレインズウォーカーの灯がともった瞬間だった。
友人が店主と話して持ってきたのは、アポカリプスの構築済デッキ「奇襲」。
パッケージの《ガイアの空の民》の絵は、時を経た今でも覚えている。
土地やマナ、各カードタイプの説明を聞きながら、実際にプレイしてみた。
ちなみに、DQ・FF好きだった僕にとって、生物をモンスターではなくクリーチャーと呼ぶのは新鮮だった。
さすがに昔のことで記憶がおぼろげだが、印象に残ってたのは以下の内容。
・既に場にいるクリーチャーに対し打ち消しを打とうとする
・CIPと瞬速を理解せず《神秘の蛇》を自メインフェイズにプレイ
・バウンス後に普通に出しなおされて「このカード弱いな!」と宣う
そもそもスタックルールも知らない初心者、扱いきれるはずはなかった。
そうは言ったものの、「これ面白いね!」と無邪気に楽しむtolda少年。
15年以上経ってもそのTCGを続けてるとは、この時知る由もなかった・・・。
(続く)
第2話 http://endlesslord.diarynote.jp/201706042014167423/
【あとがき】
はい、というわけで私とMtGの出会いでした。
これから不定期で、少しずつ私のMtGの想い出を書いていこうと思います。
連載にしたら逃げるわけにもいかないからな!(白目
時は西暦2001年、〇学生だったその少年は友人にこう声を掛けられた。
「ギャザって知ってる?」
少年にとっては初めて聞いた単語だった。
そもそも少年にとって、TCGなど未知の存在だった。
(〇戯王がすでに流行していたが、当時も今もルールはわからない)
何となく興味を持った少年は、友人と数駅先にあるというお店に向かうことにした。
「ギャザには5色の属性みたいなのがあるんだ!好きな色を2つ選んでよ!」
友人に5つの色(当然、白・青・黒・赤・緑)を提示された。
当時はアポカリプスが発売した直後で、有効・敵対色関係なく2色を使ってデッキを作ることは容易いほうだった。
友人もそのつもりだったのだろう。
各色の役割も教わらずに出された質問。
少年は少し悩んだが、ただ好きな色のみを直感で答えた。
「・・・青と・・・緑かな!」
少年toldaにプレインズウォーカーの灯がともった瞬間だった。
友人が店主と話して持ってきたのは、アポカリプスの構築済デッキ「奇襲」。
パッケージの《ガイアの空の民》の絵は、時を経た今でも覚えている。
土地やマナ、各カードタイプの説明を聞きながら、実際にプレイしてみた。
ちなみに、DQ・FF好きだった僕にとって、生物をモンスターではなくクリーチャーと呼ぶのは新鮮だった。
さすがに昔のことで記憶がおぼろげだが、印象に残ってたのは以下の内容。
・既に場にいるクリーチャーに対し打ち消しを打とうとする
・CIPと瞬速を理解せず《神秘の蛇》を自メインフェイズにプレイ
・バウンス後に普通に出しなおされて「このカード弱いな!」と宣う
そもそもスタックルールも知らない初心者、扱いきれるはずはなかった。
そうは言ったものの、「これ面白いね!」と無邪気に楽しむtolda少年。
15年以上経ってもそのTCGを続けてるとは、この時知る由もなかった・・・。
(続く)
第2話 http://endlesslord.diarynote.jp/201706042014167423/
【あとがき】
はい、というわけで私とMtGの出会いでした。
これから不定期で、少しずつ私のMtGの想い出を書いていこうと思います。
連載にしたら逃げるわけにもいかないからな!(白目
GP京都2015に向けて(事前登録編)
2015年2月19日 MtG(その他)タイトル通り、GP京都2015の事前参加登録をいたしました。
Twitterで「GP京都の参加登録した~」というツイートを見るまで完全に忘れていました。
全くもってレガシー下層民の鑑ですね。
そんなわけで本日初めて特設HPを見たわけですが、所感をつらつらと。
・参加登録方法について
外部の参加登録システムを使ってるみたいですね。
エタフェスとかと同じシステム?慣れてなくてちょっと戸惑いました。
とりあえず当日まで受付完了メールのこと覚えているかすごく不安です。
・本戦定員について
定員2000人弱とのこと。京都開催なのに昨今のGPと比較して少ない気がします。
やはり会場の収容人数の限界でしょうか?
はたまた、流石にレガシープレイヤーは少ないと予想したんでしょうか?
でも、GP神戸2014(モダン)を見てると2000人は軽く超えるような気もします。
というわけで、皆さんも早めに登録することをオススメしますよ。
・参加賞などについて
早期受付特典が《剣を鍬に》(CNS)プレイマットだと今日初めて知りました。
まぁ、別にいいんじゃないでしょうか。綺麗ですし。
そしてサイド限定プレイマットはなかなか京都らしい一品。
人物絵じゃないGPサイド限定プレイマットって珍しい気がします。
少し欲しい気もしますが、本戦参加する以上難しいかなと思ってます。
もしくはクジを引きまくるか。自己破産まっしぐら。
・ルームサービスについて
HPを見る限り、当日の昼間は会場の個室を借りられるようです。
(5人部屋と10人部屋の2つ。5人部屋は既に締切の模様。)
GP本戦参加者が休憩に使うヒマなんかないよなぁ・・・と思ってたんですが、
これもしかして荷物置き場としての利用を見込んでいるんでしょうか?
確かに本戦レガシーだとそれくらいしてもらったほうがありがたいとも思います。
まぁ、僕は地元ですので一般事前予約で終わらせましたが。
・VIPサービスについて
10000円払うと色んな特典が得られるサービス。詳細はHP参照。
限定プレイマットや後述のアーティスト優待券が手に入るあたりアドはありそうです。
でもまぁ何というか・・・需要と供給というか・・・時代の流れというか・・・。
まぁ、昨今のGP見てるとこういうサービス作るのも致し方なしかな、と思います。
・アーティスト優待券
2500円払うことで優先的にアーティストからサインをもらえるサービス。
まぁ、今にはじまったことじゃないですけどね。
予想するに、この優待券を持ってなかったらまずサインをもらえない気がします。
なんていうか、すごく寂しいお話。
でも、これもまた昨今のGP見てると仕方ない気がします。
もう、こういう方法で参加者数を制限するしかないんでしょうね。
資本主義バンザイ。
・販売ブースについて
今回も有名店がいっぱい来る模様。
僕も本戦の合間に掘り出し物やらなにやらを買いに行きたいです。
ていうかスリヴァー日本語foil買うの誰か手伝ってください、マジで。
どうでもいいけど、年に数回GPで出店して稀少品の在庫は大丈夫なんですかね?
・飲食ブースについて
今回は松屋に加えて坦々麺などが出店する模様。
ていうかなんで佐世保バーガーなの?GP北九州なの?
まぁ、食べてみたいのは事実なので狙いはつけておきます。
多分本戦が長引いてカロリーメイトでターンエンドになりそうですが。
・サイドイベントについて
いつも通り各フォーマットで色々開催される模様。本戦参加なので参加できるか微妙ですが。
それにしても「2HGカップルシールド」ってなんやねん。賞品USJペアチケットってなんやねん。
しかも男女カップル問わずってなんやねん。あれか、○モでもええんか。
一体MtG業界はどこに向かおうとしているのか。
・防犯について
HP見た感じ、そのあたりの対策の公表だったり注意喚起だったりは無い模様。
レガシーデッキ2個分くらい盗難にあった被害者としてはちょっと残念。
ただGP静岡2015のサイドイベントレガシーでは警備専門スタッフもいたらしいということですし、
運営側も防犯に力を入れ始めているようです。
運営の皆さん、頑張ってください。
そして参加される皆様も、荷物管理にはどうぞお気をつけください。
盗難が原因で引退される方は、もう見たくありませんので。
長くなりましたがこんな感じ。
まだ先の話ではありますが、当日は会場で共に頑張りましょう!
Twitterで「GP京都の参加登録した~」というツイートを見るまで完全に忘れていました。
全くもってレガシー下層民の鑑ですね。
そんなわけで本日初めて特設HPを見たわけですが、所感をつらつらと。
・参加登録方法について
外部の参加登録システムを使ってるみたいですね。
エタフェスとかと同じシステム?慣れてなくてちょっと戸惑いました。
とりあえず当日まで受付完了メールのこと覚えているかすごく不安です。
・本戦定員について
定員2000人弱とのこと。京都開催なのに昨今のGPと比較して少ない気がします。
やはり会場の収容人数の限界でしょうか?
はたまた、流石にレガシープレイヤーは少ないと予想したんでしょうか?
でも、GP神戸2014(モダン)を見てると2000人は軽く超えるような気もします。
というわけで、皆さんも早めに登録することをオススメしますよ。
・参加賞などについて
早期受付特典が《剣を鍬に》(CNS)プレイマットだと今日初めて知りました。
まぁ、別にいいんじゃないでしょうか。綺麗ですし。
そしてサイド限定プレイマットはなかなか京都らしい一品。
人物絵じゃないGPサイド限定プレイマットって珍しい気がします。
少し欲しい気もしますが、本戦参加する以上難しいかなと思ってます。
もしくはクジを引きまくるか。自己破産まっしぐら。
・ルームサービスについて
HPを見る限り、当日の昼間は会場の個室を借りられるようです。
(5人部屋と10人部屋の2つ。5人部屋は既に締切の模様。)
GP本戦参加者が休憩に使うヒマなんかないよなぁ・・・と思ってたんですが、
これもしかして荷物置き場としての利用を見込んでいるんでしょうか?
確かに本戦レガシーだとそれくらいしてもらったほうがありがたいとも思います。
まぁ、僕は地元ですので一般事前予約で終わらせましたが。
・VIPサービスについて
10000円払うと色んな特典が得られるサービス。詳細はHP参照。
限定プレイマットや後述のアーティスト優待券が手に入るあたりアドはありそうです。
でもまぁ何というか・・・需要と供給というか・・・時代の流れというか・・・。
まぁ、昨今のGP見てるとこういうサービス作るのも致し方なしかな、と思います。
・アーティスト優待券
2500円払うことで優先的にアーティストからサインをもらえるサービス。
まぁ、今にはじまったことじゃないですけどね。
予想するに、この優待券を持ってなかったらまずサインをもらえない気がします。
なんていうか、すごく寂しいお話。
でも、これもまた昨今のGP見てると仕方ない気がします。
もう、こういう方法で参加者数を制限するしかないんでしょうね。
資本主義バンザイ。
・販売ブースについて
今回も有名店がいっぱい来る模様。
僕も本戦の合間に掘り出し物やらなにやらを買いに行きたいです。
ていうかスリヴァー日本語foil買うの誰か手伝ってください、マジで。
どうでもいいけど、年に数回GPで出店して稀少品の在庫は大丈夫なんですかね?
・飲食ブースについて
今回は松屋に加えて坦々麺などが出店する模様。
ていうかなんで佐世保バーガーなの?GP北九州なの?
まぁ、食べてみたいのは事実なので狙いはつけておきます。
多分本戦が長引いてカロリーメイトでターンエンドになりそうですが。
・サイドイベントについて
いつも通り各フォーマットで色々開催される模様。本戦参加なので参加できるか微妙ですが。
それにしても「2HGカップルシールド」ってなんやねん。賞品USJペアチケットってなんやねん。
しかも男女カップル問わずってなんやねん。あれか、○モでもええんか。
一体MtG業界はどこに向かおうとしているのか。
・防犯について
HP見た感じ、そのあたりの対策の公表だったり注意喚起だったりは無い模様。
レガシーデッキ2個分くらい盗難にあった被害者としてはちょっと残念。
ただGP静岡2015のサイドイベントレガシーでは警備専門スタッフもいたらしいということですし、
運営側も防犯に力を入れ始めているようです。
運営の皆さん、頑張ってください。
そして参加される皆様も、荷物管理にはどうぞお気をつけください。
盗難が原因で引退される方は、もう見たくありませんので。
長くなりましたがこんな感じ。
まだ先の話ではありますが、当日は会場で共に頑張りましょう!