とあるPWの軌跡(4)
2017年7月2日 MtG(その他) コメント (2)とあるプレインズウォーカーの話を続けるとしよう。
第3話 http://endlesslord.diarynote.jp/201706101843432655/
青緑マッドネス。
僕は、友人の家で、ショップのデュエルスペースで、学校で(隠れて)そのデッキを使い続けた。
そんな楽しかった時は、ある時急に終わりを迎えた。
2002年11月 オンスロート発売
それに伴い、インベイジョンブロックがスタン落ち
僕がMtGに触れてから、はじめてのスタン落ち。
(正確にはマスクスブロックのスタン落ちにも遭遇しているが、その時はまだ満足にデッキも組めておらず、影響もなかった。)
基本的にほぼすべてのカードをオデッセイブロックで固めていた僕の青緑マッドネスにとって、今回も影響はないと思っていた。
しかし、たった1枚、でも致命的な1枚が消えた。
ヤヴィマヤの沿岸。
多色デッキの命綱である2色土地を、僕は失うことになった。
当時、対抗色のマナを生成する土地は2種類しかなかった。
アポカリプスの対抗色ペインランドか、真鍮の都だ。
インベイジョンスタン落ちの時、僕は真鍮の都を持っていなかった。
今でこそ手頃な価格となっているこのカードだが、当時は4桁円する高額カードだった。
当時のお小遣いで2ヵ月分もするそのカードを、僕は買うことが出来なかった。
必然的に基本土地のみとなった僕のデッキは、事故を多発するようになる。
さらにオンスロートブロックへの突入は、環境のデッキ構築概念と価値観を変化させていった。
(それこそがスタン落ちの意義ではあるのだが)
アポカリプスの消滅は対抗色は再び同じデッキに入れにくくし、辛うじてフェッチランドで対応可能な友好色についても、多くの多色カードの消失によりメタは一気に変化していく。
オンスロートで焦点の充てられた部族デッキはどんどん増える。
余りに変化していく環境に、僕は次第についていけなくなっていた。
余談だが、当時の僕は「フェッチランドは弱い」と考えていた。
直前に落ちたペインランドと違い、友好色の土地しか選択できない。
しかも一度起動して片方の基本土地を持ってくると、もう片方には触れない。
「明らかにペインランドの下位互換だ」と、声を大にして主張していたことを覚えている。
知らなかったのだ、当時の僕は。
その昔、デュアルランドというカードが存在していたという事実を。
話を戻すと、環境についていけなかったのは僕だけではなかった。
いや、インベイジョンブロックのカードに依存していた周りの友人たちのほうが、僕よりも状況は深刻だった。
少ない所持金を使って再びカードを買い集めなくてはならない。
しかも、自分が慣れ親しんだモノとは異なるデッキを作るために。
気付けば、1人、また1人と、MtGを辞めていった。
誰もが、TVゲームに、カラオケに、ボウリングに、ゲーセンに、部活に傾倒するようになった。
(恋愛?ウチは男子校だ、いい加減にしろ)
周りのプレイヤーがほとんど消え、第8版の情報(友好色ペインランドもなくなるという事実)を耳にしたころ、僕も引退を決意した。
あれだけ使っていた青緑マッドネスは、ほかのカードとともに段ボール箱のなかで眠りにつくこととなった。
僕から、プレインズウォーカーの灯が消えた瞬間だった。
それからの僕は、周りの友人と同じように、ゲームに、部活に、学校行事に、勉学に励むようになった。
MtGを辞めたことについて、寂しさも後悔もなかった。
寂しさを感じるほど、日常が退屈なわけでもなかった。
僕はそのまま、中学・高校時代を平凡に過ごしていった。
それから数年後、僕は東京にいた。
運良く東京の大学に合格し、独り暮らしを満喫していた。
複数のサークルに加入したし、それなりに講義は頑張って受けたし、交友関係も普通に持っていた。
友人たちの誘いで、いわゆるオタクジャンルにもいつの間にか手を出すようになっていた。
中学・高校時代とは多少変わってはいたが、普通の生活を送っていた。
あの日、友人の家であのカード裏面を見るまでは…。
(続く)
第5話 http://endlesslord.diarynote.jp/201707081029369730/
【あとがき】
はい、私の第1次現役時代の終焉でした。
今思うと「スタン落ち程度で」と言われるかもしれませんが、月数万使える今とは違い、お小遣いの少ない当時の僕にとっては完全に死活問題だったわけです。
今でも高校生以下のプレイヤーが少ないところを見ると、古今東西問わずぶち当たってしまうMtGの、ひいてはTCGの壁なのかなと思ってしまいます。
さて、次は復帰の物語です。
と言っても、GP参加とかはまだまだ先の話なんですが。
第3話 http://endlesslord.diarynote.jp/201706101843432655/
青緑マッドネス。
僕は、友人の家で、ショップのデュエルスペースで、学校で(隠れて)そのデッキを使い続けた。
そんな楽しかった時は、ある時急に終わりを迎えた。
2002年11月 オンスロート発売
それに伴い、インベイジョンブロックがスタン落ち
僕がMtGに触れてから、はじめてのスタン落ち。
(正確にはマスクスブロックのスタン落ちにも遭遇しているが、その時はまだ満足にデッキも組めておらず、影響もなかった。)
基本的にほぼすべてのカードをオデッセイブロックで固めていた僕の青緑マッドネスにとって、今回も影響はないと思っていた。
しかし、たった1枚、でも致命的な1枚が消えた。
ヤヴィマヤの沿岸。
多色デッキの命綱である2色土地を、僕は失うことになった。
当時、対抗色のマナを生成する土地は2種類しかなかった。
アポカリプスの対抗色ペインランドか、真鍮の都だ。
インベイジョンスタン落ちの時、僕は真鍮の都を持っていなかった。
今でこそ手頃な価格となっているこのカードだが、当時は4桁円する高額カードだった。
当時のお小遣いで2ヵ月分もするそのカードを、僕は買うことが出来なかった。
必然的に基本土地のみとなった僕のデッキは、事故を多発するようになる。
さらにオンスロートブロックへの突入は、環境のデッキ構築概念と価値観を変化させていった。
(それこそがスタン落ちの意義ではあるのだが)
アポカリプスの消滅は対抗色は再び同じデッキに入れにくくし、辛うじてフェッチランドで対応可能な友好色についても、多くの多色カードの消失によりメタは一気に変化していく。
オンスロートで焦点の充てられた部族デッキはどんどん増える。
余りに変化していく環境に、僕は次第についていけなくなっていた。
余談だが、当時の僕は「フェッチランドは弱い」と考えていた。
直前に落ちたペインランドと違い、友好色の土地しか選択できない。
しかも一度起動して片方の基本土地を持ってくると、もう片方には触れない。
「明らかにペインランドの下位互換だ」と、声を大にして主張していたことを覚えている。
知らなかったのだ、当時の僕は。
その昔、デュアルランドというカードが存在していたという事実を。
話を戻すと、環境についていけなかったのは僕だけではなかった。
いや、インベイジョンブロックのカードに依存していた周りの友人たちのほうが、僕よりも状況は深刻だった。
少ない所持金を使って再びカードを買い集めなくてはならない。
しかも、自分が慣れ親しんだモノとは異なるデッキを作るために。
気付けば、1人、また1人と、MtGを辞めていった。
誰もが、TVゲームに、カラオケに、ボウリングに、ゲーセンに、部活に傾倒するようになった。
(恋愛?ウチは男子校だ、いい加減にしろ)
周りのプレイヤーがほとんど消え、第8版の情報(友好色ペインランドもなくなるという事実)を耳にしたころ、僕も引退を決意した。
あれだけ使っていた青緑マッドネスは、ほかのカードとともに段ボール箱のなかで眠りにつくこととなった。
僕から、プレインズウォーカーの灯が消えた瞬間だった。
それからの僕は、周りの友人と同じように、ゲームに、部活に、学校行事に、勉学に励むようになった。
MtGを辞めたことについて、寂しさも後悔もなかった。
寂しさを感じるほど、日常が退屈なわけでもなかった。
僕はそのまま、中学・高校時代を平凡に過ごしていった。
それから数年後、僕は東京にいた。
運良く東京の大学に合格し、独り暮らしを満喫していた。
複数のサークルに加入したし、それなりに講義は頑張って受けたし、交友関係も普通に持っていた。
友人たちの誘いで、いわゆるオタクジャンルにもいつの間にか手を出すようになっていた。
中学・高校時代とは多少変わってはいたが、普通の生活を送っていた。
あの日、友人の家であのカード裏面を見るまでは…。
(続く)
第5話 http://endlesslord.diarynote.jp/201707081029369730/
【あとがき】
はい、私の第1次現役時代の終焉でした。
今思うと「スタン落ち程度で」と言われるかもしれませんが、月数万使える今とは違い、お小遣いの少ない当時の僕にとっては完全に死活問題だったわけです。
今でも高校生以下のプレイヤーが少ないところを見ると、古今東西問わずぶち当たってしまうMtGの、ひいてはTCGの壁なのかなと思ってしまいます。
さて、次は復帰の物語です。
と言っても、GP参加とかはまだまだ先の話なんですが。
コメント
僕は当時マシーンヘッド(インベイジョンブロック構築の虚空を使った赤黒コン)が好きでした(*´ω`*)
僕らの周りは当時落ちたカードとかはカジュアルエクテンとかで遊んでいたんであまりそういうのはなかったですねぇ(それでも当時の親和に皆嫌気がさして神河で皆一旦やめましたがw
というより、みんな手持ちのカードだけでどうやってデッキ作るかで必死でしたね。
激動サイカでも激動が1枚しか入ってなかったり。
周囲がそんな感じで十分なカードプールを有してなく、カジュアルエクテンの文化もなかったのが引退の一因でしたね。
(エクテンしよう!→ガチのエクテンするにもカードがないしやめよう、という流れ)